昨日ふとテレビをつけてみたら(11月23日)、ある外国の少年が『桜、桜、、、』の曲を、2度ほど聴いただけで、それを、日本語がまったくわからないにもかかわらず、鍵盤で弾きながら歌いだしたのである。 応用言語学を専門にしている私にとっては、グラヴィトンの研究をしていなかったら、多分その少年を〜症で異例として扱って、一般の学生とは別個であると分類し、そして分類することで、頭の中では解決したと思っていただろう。それこそまさしく、偏見というべきもので、何事も偏見や固定概念で解決しようとするのはあさはかであると痛感した。おそらく私は、前世でそんな過ちばかりをしていたから、現世ではその逆の立場に立たされ、いかに偏見や固定概念をもつことが、各自の成長の妨げとなるばかりか、世の中の進歩を遠ざけるものとなるかを訴える役目を背負っているのかもしれない。
 私達の脳の4%も使わずして、ほとんどの方が死んでいく。潜在意識や脳否身体全体が水晶構造をしていて、すべてをうつすことができる精密な仕組みであることを知れば、むしろその少年のようにできないことのほうが不思議なのである。ただ、いろいろな雑念や既成概念、偏見や固定概念がそれを邪魔するのである。またその人その人にめぐりあったうつし方というのも同時に存在するであろう。
 以前に、各自がオリジナルなものを探すまたは、各自でオリジナルなものを表現することがいかに大切か述べたが(『カガミに何をうつしたいですか』で)、本当にきれいな水晶になってしまえば、宇宙のすべてがうつるはずなのである。となると、オリジナルなものって、其れは宇宙そのもので、その人固有のものではない。無我の境地とか、無心に到達しようとしている方々の真意もそこにあるのではないだろうか!だから私達がしているこの研究も固有のオリジナルなものでもなんでもない。共感されるかたほど、なぜか何かを思い出そうとしている気持ちにかりたてられるのではないだろうか? しかし、各自が各自のオリジナルなものを探そうとまた追い求めようとすることはきわめて大切である。 なぜならそれがすべての宇宙をうつす魂へとつながっていくからだ。


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