Pole Shift と Paradigm

 今年は何とパラダイムの年だそうだ。天動説から地動説へと一般の方々の見方が変化するということのように、
今までの見方や価値観から大きくポールシフトする年でもあるようなのだ。
 確かに、波動というものが一般の人々の間でもようやく市民権を得てきたのは大きな変化である。しかしながら、それで、自分自身の人生や現実というものまたこの物理界においてのシフトがおきたかというと、そういう実感のない方々がほとんどであろう。
 それでも、グラヴィトンについて理解をし始めておられる方々の間では、故政木和三先生の、80周記念での講演での言葉に、興味を示されてきているようだ。『欲望を無くして、脳波をシーター波にさげて、完了形でこうなると思ったら、そうなってしまうんです。』 『水がお酒になったり、口から真珠が出たり、自由自在!』 
 これらの言葉の意味について、自分とは異質の分野のキャタゴリーにおかずに、また自分の世界からしめ出さずに、これらの一部でも理解しようとし、取り入れようとする試みがみられてきているようだ。 また、政木先生と自分は何が違うのか?また彼が尊敬され、彼自身が先生とまで呼んでおられる中村和尚と自分は何が違うのだろうか?またインドのババジーと自分は何が違うのだろうか?という疑問に少なくとも到達するかもしれない。
 私たち一般の人々は、一般のいわゆる教育というのを受けているわけで、特に戦後の教育(マスコミからの教育も含む)を受けている日本の『一般の人々』の間では、西洋文化、特にアメリカの文化の影響が非常に強いことは言うまでもない。スポーツひとつをとってみても、アメリカの野球文化にヨーロッパのサッカー文化を加えていくことにでさえも、すごいエネルギーと年月がかかっている。まだまだおやじ一般の間では、野球熱のほうがずっと高いのはいうまでもないであろう。失礼!若い世代のおやじの間ではサッカー熱も高そうだが。
 それで、グラヴィトンとパラダイム、ポールシフトのことについてだが、前にもしばしば述べているように、グラヴィトンとは、特にこの磁石のデヴァイスからでているものは『何の既成概念もない無数の非常にきめ細かな素粒子というか波動というか磁界または空間というか自然というか宇宙そのものというか鏡のようなものであろう』ということ、そしてそれがパラダイムなのかなーと思い始めている。またそのことに気づかせてもらえるというのがこれグラヴィトンの環境に自分自身を置くからなのだろうかと思いつつある。ゆえに故政木和三先生の『神は生きている個々の人の生命体の中にある』という意味が解り始めてきたようだ。
 この世に赤子として生まれてきてから、まー何と多くの既成概念ばかりを植え付けようとまわりはしてきたのか、そしてその子はまー何とそれに必死になって抵抗してきたのか解るような気がしてきた。未知であるということは、まさに綺麗な何の既成概念もないグラヴィトンの世界であり、無限の可能性なのである。それにあーだのこーだのと、とも自分は現実というものを知っているかのようにまた答えを知っているかのように既成概念を植え付け、無限の可能性を有限にしてしまってきたのかと思うと浅はかだったなーと思わざるをえない。そしてまたこのことも単なるひとつの既成概念にすぎないのであろう。人生一瞬一瞬が無限の可能性なのである。だから本当に学ぼうとする人は、絶えず別の選択肢、別の可能性、まわりの既成概念に縛られないものを生み出そうと必死になっているのである。それがすなわち、『無から有』であり『神業』となっていくのである。そして個々の生命体はその過程をこの世(地球上またこの次元とは限らないが)に選び、磨きあげているのである。それなのに、1+1は2に決まっているとか、まるで現実や人生とは問題集のごとく、またその答えはすべてうしろにのっているかのごとく、既成概念を植え付けていくことは、越権行為もはなはだしいことになる。現象とか結果がどうのこうのというのではなく、いかに個々の生命体がその過程を大事にして、一瞬一瞬の無限の可能性に挑んだり、その瞬間の芸術性に個々を発揮するかということであろう。また他の生命体との交流によってよりいっそうの無限性に、たとえていうなら、白いキャンバスのようなグラヴィトンの世界をいかに埋めつくすかがパラダイムなのではないだろうか。またそれが5次元の世界へと結びついていくのではないだろうか?
まず、ポールシフトとは個々の自分の中の生命体のなかでのポールシフトから始まるのではなかろうか?


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