カガミに何を映したいですか?

 

2000年の夏に主人がたまたま思い出した磁石のデバイスを本格的に研究し始めて、丸四年の月日が流れた。

 初めは、何がなんだか分からず、子供の好奇心のように、思いつくままに片っ端から試してみて、それでも分からず、一所懸命専門家の意見を聞こうと、又勝手にこれは自分たちの手には負えないと決め付けてかかり、何とか専門家に委ねようと探していた時期もあった。

 結局、専門家といえる方には出会えず、この研究を委ねることは出来なかったが、それでも各方面で研究しておられる方々のお話から直接私たちの研究に結びつくようなヒントをたくさん頂いてきた。同時に、これまで会わせて頂いた方々の話をまとめてみて分かったことは『専門家はいない』『自分に自信を持つこと』ということだった。

 このデバイスから出るエネルギー(グラヴィトン)は、やはりそれだけでは何もない、『素』のエネルギーのようだ。人体の神経経路が水晶構造で、情報をそこへ映すことで物事を現実のものとして表現しているのと同じで、このエネルギーもまた、さながら無数の小さな鏡、それも透き通った、何の曇りもどこにもない、まったくの新品の鏡の集まりのようだ。

 鏡というものは、その面積一杯にそこへ映るものすべてを映し出す。その鏡を叩き割って、小さな破片にしてみても、そのすべての破片をつなぎ合わせないとひとつの鏡が成り立たないのではなく、それぞれの小さな破片の中にも、そこへ映るすべての世界がひとつも漏らされる事なく映し出される。また、つなぎ合わせることで、小さな破片のときに映っていた小さな情景が、その面積にあわせて再び大きく映し出される。

 このデバイスから出るエネルギー、グラヴィトンは本当に細かい粒子である。それは現在簡単に手に入る検査機の結果には決して現れない、現れにくい細かな波動である。検査

機には探知されなくても、人体には探知されるのである。感覚の鋭い人などは、実際に鋭い反応を示してこられる。主人はともかく、私などは鈍感が服を着て歩いているようなものなので、そういった感覚の鋭い方に出会って、その方々の感想を耳にするたび、その感覚を一緒に共有できればどんなに楽しいだろう、とうらやましく思えることすらある。

 そうはいっても、私もこれまで主人と一緒にいろいろ試してきて、毎回バージョンアップするエネルギーの充満した環境で日々過ごしているせいか、たまにそれらの感想を耳にしたとき、思い当たることも出てきたりすると、それまで『気のせい』だと思っていたことがまさしく『気(グラヴィトン)のせい』だったのだ、ということに気付き、驚かされることもある。と、同時に『自分を信じる』『自分の感覚を信じる』事の大切さに気付かされる瞬間でもある。

 いかに科学が発達して、いかに優れた検査機器が世に出ようと、人体ほど優れたセンサーの塊は人間には作れないようだ。人体を形づくる細胞の一つ一つが突詰めていくと、細かなグラヴィトンの塊によるものであることを知ると、どんなに優れたスーパーコンピューターができてもそのメモリー量には到底及ばないということに気付く。

 ここまで思いを巡らせたとき、初めて人間がいかにちっぽけな生き物か、またいかに尊い生き物かということを思い知らされる。同時に地球にあっての人類、すべての生き物が実は地球という星にあってはじめて全てが成り立つのだ、ということに気がつく。

 先ほどの鏡の例えは実は人間自身にも置き換えることができる。小さな破片が一人ひとりの人間なのだろう。

 今、世界中で、いろいろな理由から戦争や紛争が起こっており、そこに住む人々は今日本に住んでいる私たちからすれば、本当に何気ない日常自体が全うに送れない日々をすごしている。一方の私たちは、この毎日の営みがごく当たり前のこととして捉えており、その日常が実は先人の努力のあとの土台の上で成り立っているものなのに、そのことにまったく気づかず、あたかも自分が受ける当然のサービスであるかのように錯覚している。きっと私たちにも、そんな錯覚をするだけの理由がちゃんとあるのだろう。日本に住む私たちは、それぞれが、『錯覚』という理由(情報・情景)を鏡に映している。それぞれいろいろな種類の『錯覚』という情景を映した私たち一人ひとりが寄り集まると、一枚の日本という鏡になれるのだろうか。どうもそれぞれの破片の角度があまりにばらばらで、一枚の鏡としてその前に立つ人(日本としての姿)をそっくりそのまま映し出すことはとてもできないような気がする。

 同じように、世界各国の人たちもまた、それぞれが抱えるいろんな『理由』をそれぞれの鏡に映しこんでいる。やはりそれらもまた、それぞれの角度がばらばらなので、一枚の鏡としては成り立てないでいる。こうした視点に立つと、世界中の国々が今の日本と同じような状態でいることは変わりない。

 まるでかつてはひとつの丸いきれいな水晶の玉(地球)だったのが、いまや表面(人類・大地)からひび割れてきているみたいに見える。今の世界状況を当てはめると、もうかなりのひび割れが進んでいるようだ。

 石を外から叩いていくと、ある程度までひびがいくと中から簡単に砕けてしまう。なんだか今の地球を見てみると、これとほとんど差がないような気がする。ということは、このままいくと、地球自体が内部崩壊してしまうようなところまで、今実は来てしまっているのではないのだろうか。

 感覚の鋭い人たちは、以前から『このままでは危ない』と警告を盛んに発してきているけれど、私のような鈍感が服を着て歩いている者は、なまじ感覚が麻痺してしまっているだけに、また、日ごろいろんなスクリーンのかかった情報をあらゆる方法で知ると知らずとに関わらず仕入れてしまっているだけに、よくて聞き流し、ひどいと『また終末思想』『どっかの宗教の受け売り』と盛んに牙をむいて攻撃している。あまりにひどい攻撃の嵐のために、そうした感覚の鋭い人たちは、感覚が鋭いだけにその刃に耐え切れず、貝のように口を閉ざしてしまっている人たちも少なくないだろう。

 でも、そうすることで本当の解決になるのだろうか。最近のこの精神世界ブームや癒しブームの中に、みんな本当はそうした情報が知りたくて、また本当の自分、自分の使命を知りたい、という願望が隠れているように思う。みんな心の奥底では、ずれてしまった自分の鏡の角度を元に戻して、一枚の鏡としての役割を全うしたいと願っているように見える。考えてみれば当然のことだと思う。みんな一人ひとり違うといってみたところでみんなが今立っているこの大地は、地球というひとつの星の中においては同じことなのだから。立っている大地の国が違うといったところで、地面を掘り進んでいけば、同じ地球の上に存在している、繋がった者同士なのだから。

 一人ひとりがずれてしまった自分の鏡の角度を直していって、一枚の鏡に戻したときに、それが国別の単位で行われていることであれば、その一枚の大きな鏡に映るのは、そこの国の姿だろう。その次の段階として、隣り合った国同士でまた同じようにずれてしまった鏡を直していけば、そこに映るのは日本だったら、アジアの姿が映るのだろう。同じようにまた、隣り合った地域同士でそれぞれずれてしまった鏡を直していくことで、そうした作業を根気強く繰り返すことで、いつかは地球上の表面に入ってしまった亀裂を元に戻すことができるかもしれない。砕けてしまった水晶(地球)のかけらを元に戻すことができるかもしれない。

 元に戻った曇りのない、きれいな水晶の玉となった鏡には一体何が映るのだろう。そこに映るのは深遠なる宇宙の営み、宇宙の姿なのかもしれない。

 主人がひらめきで作った、磁石のデバイスを本格的に研究しようと思い立ったきっかけとなった故関英男博士のグラヴィトニクス理論、関博士と佐々木の将人氏との共著『心は宇宙の鏡』のタイトルのように、ここまで戻ることが出来て初めて、『心は宇宙の鏡』の何たるかを思い知ることが出来るのだろう。

 初めの頃、中村公隆和尚に縁あって会わせて頂いた時、主人がお持ちした磁石のデバイスを手に取るなり、「これはすごいですね。私らは修行を積むことでいわゆる法力を身につけてきたので、取り立てて必要ということは無いかも知れないが、一般の人たちにとってはとても便利なものになるでしょうね。」と仰っていただいた。そのときは、いまひとつよく分かっていなかったが、確かにこのデバイスを身近に置くことで、もしくはそこから出るエネルギーを込めたものを身近に置くことで、法力とまでは行かないにせよ、今まで自分の頭の中にかかっていた霧のようなものが次第に晴れ渡ってきて、自分の立っている足元から、その先に続く道(使命?)のようなものがおぼろげながら見えてきたのは面白い事実である。このデバイスは、またここから出るエネルギーは、一人ひとりの頭の中にある、霧のようなものを吸い込んでくれる、ある種の掃除機のようなものなのかも知れない。和尚が言われた、『便利なもの』とはそういうことだったのか。

 私自身、これまで、このデバイスの恩恵(?)を受けて自分の頭の曇りを取り払って、現在も引き続き自分の鏡の曇りを磨きつつ、角度の調整もしているところである。ここまでの状態の鏡を持って私は何を映したいのだろう。さし当たっては周りの人たち、主人やわが子を始めとする身近な人たちだろう。そして私自身もまた、彼らの鏡に映った自分の姿に時に驚きつつ、時に惚れ直し(?)、時に愕然としつつも、少しずつ己の見てくれを直しながら、角度調整を行っていくのだろう。その果てに、はるかに広がる広大な宇宙の姿を写しとれるであろう未来を夢見ながら。

そんな気がした!


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