グラヴィトニクスを読む前に


  
 明治維新のときに、文明開化という中のひとつに、西洋医術の解剖ということが伝わった。賛否両論あったはずだ。今は
DNAの操作にも賛否両論がある。

 
 ずっと昔には、ある君主が、国をやっと統一して、敵陣や自分を脅かすと思われる人たち及びその妻子をも含め、すべて抹殺すべきかどうか賛否両論あった末、抹殺することにしたという歴史上の事実も多々ある。最近でも、ある目的を成し遂げるために、一般市民をも巻き込むことも平気で行う戦略方法をとる国もある。どんなにひどい現実を、目の当たりにしても、いつも思うことは、神も仏も異星人もまた超人でさえも、地球人の行動に関して何も干渉しない。 誰かさんのいう、沈黙かもしれない。

 
 奇跡的に、スーパーマンがやってきて、救ってくれることは、本当は誰しも期待していたはずだが、やってこなかった。来たとしても、さっさと自分の利益になるものをとって行っただけだったりして。だからもう、そのスーパンマン的存在を、思うことさえも、裏切られるのが怖いからとか、本当は悪魔の仕業とか、いろいろ賛否両論があるだろう。

 
 ただ、生命をいただいて、今を生きている個々の思いというか意識のなかで、判断して行動して、生きていくのは、自分以外の何ものでもない。つまり、それが生きるということの条件というか約束事のように思われる。

 
 スーパーマン的存在になれるのも自分でありまた妻子をも抹殺する行動をとるのも自分である。すべてがこれまた一個人の意識というか思いの中にゆだねられている。意識があって行動をとる人もいれば、無意識または半意識で行動をとる人もいる。

 
 今まで、自分がしてきたこと、信じていたことを、誰も間違いだったと認めたくない。権威や地位のある人ほどそうであるが、またそれらを脅かす存在があらわれてきたら、排除したり、なかったことにしたい気持ちはわかるが、逃避していたのでは、いつまでたっても、自分自身のなかでの進歩または解決にはならないことも確かである。

 
 「私は、これを信じているので、またはこれが世間でいう教育、価値観やある意味での枠なので、それ以外のことは論じないでくれ!」というのは、「もう年老いて、何もする元気がないから、静かに、死なせてくれ!」と、言っているのと等しいのではないだろうか?

 
 何か今までに体験または体感したことがなかったもの、また今までに体験または体感したことがあっても、それは、ある意味であるひとつの枠の中以外のことであれば、気のせいとか、非現実的とか非常識と判断してしまう傾向があるのは無理もないかもしれないし、それゆえに、あえてその枠から外れた世界を探求してみようとは思わないのも無理もないことかもしれない。そしてましてやその枠たるものが、ひとつの教えやひとつのシステムになってしまっていれば、そこからはずれることには、ある意味で勇気というか、冒険心が必要かもしれない。
 
 何が違うのかというと、動きがあることを認めるか、それともいつも静止した一瞬を描いてそれを論じているかの違いである。前者がグラヴィトンの存在で、後者が静止画像のみの人生である。もちろん、後者は味も素っ気もない。じゃー、前者は味もその気に満ち満ちているかというと、食べ物からしてそうである。否、豊かな五感とそれ以上の感覚の人生を味わうことができるのである。


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